白鳥氏とは


皇太神社
皇太神社

白鳥(しろとり)氏は山形県村山市白鳥地区に住んでいた豪族です。

白鳥氏は戦国時代末期、
当主が白鳥十郎長久のときに、
それまでの居城「白鳥城」から、
山形県西村山郡河北町にあった「谷地(やち)城」にうつりました。

代々、
中条(なかじょう)氏が居城としていた谷地城ですが、
どのような経緯で中条氏が滅び、白鳥氏が入部してきたのか、
白鳥氏と中条氏が争ったという記録や伝承は残っておらず、
謎になっています。

谷地は最上川に近く、
また、各方面からの街道が交差する地点で、
当時の谷地は山形と並んで発展した土地でした。

天正十二年(1584年)六月七日。
白鳥十郎長久は、おもむいた山形城で、
山形城主の最上義光(もがみよしあき)に誅殺されてしまいました。

その後、
山形勢と谷地・寒河江の連合勢との合戦になりましたが、
谷地・寒河江勢の総大将が鉄砲で討ち取られてしまったことなどから、
谷地・寒河江が最上軍によって攻めこまれ、
谷地白鳥氏・寒河江大江氏ともに滅ぼされてしまいました。

谷地城は白鳥氏が滅ぼされたあと、
最上氏の支配する城となりましたが、
出羽の関ヶ原ともいわれる、
最上氏と上杉氏との戦いのとき、
下(しも)吉忠を大将とする上杉軍に占領されてしまいます。
関ヶ原での勝敗が最上氏や上杉氏に伝わり、
上杉氏は山形領から撤退することになりました。
なぜか、
上杉軍の撤退命令が谷地には届きませんでした。
谷地城は最上軍に取り囲まれてしまいました。
谷地城を占領していた上杉軍は谷地城に立て籠もることを余儀なくされてしまいます。

立て籠もる上杉軍は2千5百。
谷地城は長谷堂で上杉勢の直江軍と戦っていた最上勢が、
大挙して谷地城に襲いかかり、城を取り囲んだそうです。
最上軍は谷地城を11日間あまり攻め続けます。

しかし、
最上軍は城を武力で落とすことができませんでした。

谷地城がなかなか落ちなかった原因は、
谷地城に入った上杉軍の下吉忠の武功も大きいのでしょうが、
それに加えて、
谷地城は平城でありながらも大変に堅牢な城だったことも幸いしたのでしょう。

現在に至って谷地城は残念ながら、
三社宮の境内に土塁の一部しか残っていません。

街の整備のとき、
白鳥十郎長久は多くの寺社を復建したり、
かつての居城「白鳥城」下にあった寺社などを谷地に移しました。
また、もとの居城「白鳥城」付近にもゆかりの寺社があります。

住民の心の安定をはかったのかもしれません。

このサイトでは、白鳥氏が関係した寺社を紹介します。