湯野沢熊野神社
湯野沢熊野神社は、
1207年、
平友康が紀伊の熊野本宮より熊野大神を御分霊して建立したと伝えられています。
江戸時代に湯野沢地区を治めた新庄藩の祈願所として代々の新庄藩主の信仰が篤かった神社でもあります。

湯野沢熊野神社の拝殿
平友康は通称、熊野三郎といわれ、
その子孫は代々この熊野三郎を襲名したようです。
白鳥家の側から書かれた史料として、
天正最上軍記が残っていますが、その中の家臣団の中にも、
最上氏側についていた人物を討ち、村山市湯野沢地区や大久保地区を白鳥十郎が領地化した。
このことが最上家とのしこりの一つになった、とも考えられないでしょうか。
白鳥氏の配下に加わった熊野三郎友重は、白鳥十郎が山形城で誅殺されたとき、
十郎とともに討ち取られた、
と伝わっています。
このような伝承も残っています。
十郎が山形城に赴くとき、
現在の河北町田井の最上川沿いで、
飛んでいた鳥の糞が十郎に落ちてきました。
十郎に従って山形に向かっていた熊野三郎友重は、
この様子を「不吉」と見て十郎に、
山形に行くことを取りやめるように進言したのですが十郎は聞き入れませんでした。
このとき糞をした鳥は熊野神社の使いである「八咫烏(やたがらす)」だったそうです。
この伝承によると、
谷地勢が山形に行くのに、
田井で最上川を渡り、
天童を通って行ったと考えられます。
何故、
谷地勢は天童を通る道を選んだのでしょうか。
白鳥氏の歴史を知る上でも鍵となりえる熊野三郎。
今後、
より一層、熊野三郎の一族のことが解明されることを望んでいます。

熊野神社の標柱

参道
標柱付近の一の鳥居をくぐり、杉林の中の参道を数十メートルほど進むと二の鳥居にたどり着きます。

二の鳥居の先の石段
二の鳥居から石段を登ります。
石段の脇には八幡大神や稲荷大神など、摂社が左右に並んでいます。
石段を登り上げると三の鳥居があり、拝殿につきます。

熊野神社の境内

大スギ
拝殿のまわりには杉などの大木が多く残っています。